2014年05月26日

ドキュメンタリー映画 『美しいひと』

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韓国、オランダ、日本。あの原爆を生き抜いた人たち、そして、生きることができなかった人たちの物語

撮影・監督/東志津 
プロデューサー/野口香織 整音/永峯康弘 音楽/横内丙午
題字/赤松陽構造 

原爆投下から69年。被爆者も人生の最終章を迎えています。彼らはあの日、何を見たのか、原爆後の人生をどう生きたのか。日本は唯一の被爆国と常に言われるが、広島、長崎で被爆したのは日本人だけではない。この作品は、被爆後を生き抜いてきた人たちに取材し、原爆が日本人だけの悲劇ではなかったことを伝えている。

<映画の舞台1 韓国>
原爆の犠牲者は、広島・長崎あわせて、およそ21万人にのぼると言われる。そのうち約4万人が、当時、日本の植民地だった朝鮮半島からの労働者、あるいは移住者だったという。
韓国の陜川(ハプチョン)原爆被害者社福祉会館では、広島・長崎で被爆した韓国人が余生を送っている。70歳代〜90歳代の日本で教育を受けたり、青春時代を過ごした人たち。この施設に暮らす人たちに、被爆当時の話、その後どう生きたかを訊ねているが、差別の中、補償もなく苦しい生活をしてきたという。苦難を乗り越えてここにたどり着き平穏の時を過ごしている。日本時代を懐かしんで、広島弁で語る言葉は穏やかで、この施設に来て、やっと穏やかに暮らせるようになった人たちなのかもしれない。
この施設は韓国政府と日本政府の支援で1996年に開館し、運営は大韓赤十字社が行っている。
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韓国陜川原爆被害者福祉会館の藤棚に集う被爆者たち
コピーライトマークS.Aプロダクション

<映画の舞台2 オランダ>
長崎の爆心地付近に捕虜収容所があり、イギリス、オランダ、オーストラリアなどの連合国軍兵士の捕虜195人が被爆し、7名が亡くなった。当時、オランダはインドネシアを植民地支配していたが、1942年、日本軍のインドネシアへの侵攻で、オランダ軍は降伏。多くのオランダ軍の若者が捕虜となって日本へ送られ、強制労働に従事させられていた。そういうことで捕虜の中にはオランダ人が多かったという。
ここでは、長崎で被爆した3人の元捕虜をオランダに訪ねているが、彼らは忘れられない原爆の記憶を語り、トラウマに苦しんできたと語る人もいる。そして一人は、自分の体験を語った3週間後に亡くなった。

<映画の舞台3 日本>
被曝した母が亡くなり、その黒こげの遺体のそばにたたずむ姿の写真が被爆の象徴になった龍(りゅう)智江子さん。16歳の時に長崎で被爆。家族を失い、親戚の人の助けをうけ、戦後は看護助手などをしながら生きてきた。原爆の後遺症と戦いながら暮らしてきた年月を語り、龍さんの一人息子は、自身も被爆2世として、いわれのない差別を受けたことを語った。

監督は、この『美しいひと』というタイトルについて、「原爆に屈することなく、自分の人生を見事に生き抜いた人々、そして、“その瞬間”まで確かにそこにいた人々の、美しい人生の記憶を残しておきたい―そんな思いから本作は生まれました」と語っている。

原爆を描いた映画は毎年のように作られているが、日本人以外の被爆者について描いた作品は、朴寿南(パク・スナム)監督の『もうひとつのヒロシマ−アリランのうた』、スティーブン・オカザキ監督の『ヒロシマ ナガサキ』などでも描かれてきたが、マスコミで報じられることはめったになくて、ほとんどの人が知らないのではないかと思います。それにしても、広島で朝鮮人だけでも4万人の犠牲者がいたとは思ってもいませんでした。それに、陜川原爆被害者社福祉会館の存在も初めて知りました。映画は知識の源です。
被爆の話は、忘れないように繰り返し若い人に伝えてゆく必要があるけど、被爆した人たちの証言を聞く機会は急がないと時間がない。
東監督にインタビューしたので、HP,本誌91号掲載予定です。(暁)

東志津監督
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『美しいひと』公式HP http://utsukushiihito.jimdo.com/
製作協力/ヒポ・コミュニケーションズ いせフィルム 
製作・配給/活鼡社 S.Aプロダクション
助成/文化芸術振興費補助金 
2013年 日本 116分 カラー 
5月31日(土)新宿・K's cinemaにてロードショー!
posted by akemi at 02:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする